ギリシャのテッサリア地方にオルフェウスという男が住んでいました。 彼は神アポロンとムーサイのひとりカリオペの間に生まれた。 オルフェウスは毎日、金の竪琴を弾いては誰もまだきいたことのないステキな歌を歌っていた。 彼が歌うたび、鳥や獣がその歌を聴きに集まるし、木々は頭を下げ静かに聞き入っていた。空の雲さえその歌を聴くといっそう美しく輝き、小川の水までも彼の歌に合わせてやさしい音をたててサラサラと流れた。 彼は多くの人に音楽の名人として慕われたが、アルゴー船の遠征に加わって手柄をたててからは全ギリシャで名高い男となった。 このオルフェウスにはエウリュデケという妻があり、二人は心からお互いのことを愛していた。彼は日々妻の為に竪琴を奏でて歌をうたった。すると、エウリュデケはオルフェウスと並んで草原に腰を下ろして彼の曲に聞き入っていた。それほどなかの良い夫婦でした。 ところがある日、エウリュデケが川岸を散歩しているうちに草の中の毒蛇を踏みつけてしまった。蛇は怒ってエウリュデケに噛みつき、彼女はたちまちその蛇の毒で倒れてしまった。 「心から愛しているあなたと別れるのは本当につらいわ」と言葉を残し彼女は息絶えた。 愛するエウリュデケを失ったオルフェウスの哀しみは深く、彼は嘆き悲しみのあまり、もう二度と竪琴をひくまい、二度と口を開いて歌う事もしないと決心した。 竪琴も歌も全てエウリュデケの為だったのだから・・・・・ オルフェウスは毎日エウリュデケと一緒だったあの川岸の草原でぼんやり座り込んでため息ばかりついては涙を流すのだった。草原の鳥も獣もどうしてオルフェウスが美しい歌を歌わないのかとあやしんでいた。 とうとうそんな悲しみに耐えきれなくなったオルフェウスはエウリュデケをとりもどそうと考えた。これ以上何もしないでここにいることもできない。 「エウリュデケがいなくては僕は生きていけない。そうだ!死者の国に行ってそこの王に頼みあの人を返してもらおう」 そう決心するとオルフェウスは竪琴をとって太陽が沈む方角にあるという『死者の国』に向かって歩き始めた。 どこまでもどこまでも歩いて行くとやがて黒い大きな門の前に着いた。門には太い閂が掛かっていて開けられないようになっている。そこには太陽の光もとどかず、霧が立ち込めていて薄気味悪いところだった。 門の前には頭が三つある化け物のように大きい一匹の犬が番をしていた。一面の闇の中でその犬の六つの目だけがメラメラと炎のように光っていた。 オルフェウスが近づくと犬は三つの頭をもたげ、三つの口を大きく開き歯を剥き出しにしてすさまじい声でオルフェウスに吠え、今にも飛びかかろうとする。 そこでオルフェウスは竪琴を肩から下ろすと静かに引き始めた。すると犬はだんだんおとなしくなってしまいには彼の足元でうっとりと眠ってしまった。その上、彼が歌を歌い始めるとその歌声に門の閂までも外れ、ひとりでに大きく開いた。 オルフェウスは喜びいさんでその道をどこまでも進んでいった。 進んでいくととうとう『死の国』ハデス王の城に着いた。 御殿の前には番兵が立っていてオルフェウスを追いかえそうとしたが、再びかれが竪琴をひくと番兵もうっとりして役目を忘れてしまい、彼を通してしまった。 そのまま大広間へ入っていくとハデス王がすさまじい声で叫んだ。 「貴様は何者だ!また何の用があってここへ来た!ここへは死んでからでなくてはこられないということを知らないのか!二度と外へ出られないようにくさりにつないで牢に入れるぞ!」 オルフェウスは黙ったまま竪琴をとると、美しい音色をかきたて、美しい声をふるわせて静かに歌いだした。その歌を聞いているうちにハデス王の怒りもだんだんおさまっていきました。やがて、おだやかな顔になるとハデス王は言った。 「お前は美しい音楽ですっかり私を喜ばせてくれた。こんないい気持ちになったのは生まれてはじめてだ。どういう願いがあってここにきたのか言ってみろ。いい気分にしてくれた礼にどんな願いでも一つだけ叶えてやろう。なにか願いがなくては死なないさきにこんなところへくるものはいないからな。」 「ありがとうございます。では申し上げますが、王よ、どうか私のエウリュデケを返してください。もう一度私と地上で暮らさせてください。」 そうオルフェウスは頼んだ。 この願いを聞いてハデス王は暫く苦い顔をして悩んでいたが最後にはうなずいて言った。 「お前はあんなに素晴らしい歌をうたってくれたのだからその無理な願いも叶えてやろう。安心して地上に戻るがいい。エウリュデケはお前の後からついてゆく。」 そこからさらに念をおすかのように付け加えた。 「但し、ことわっておくが、あの女が地上に着くまで、お前は決して後ろを振り返ってはならぬ。もし、振りかえったなら、あの女はたちまちまたこの死の国に引き戻されてしまうだろう。そうなったら私にもどうすることもできなくなってしまうのだからな。」 オルフェウスは喜びで満ち溢れていた。地上に向かうその前に一目だけエウリュデケを見たいと思ったが王にそう言われたので地上に出るまで決して振り返らないと約束するしかなかった。 こうしてオルフェウスはハデス王の城を後にした。あの暗い門をぬける時も犬はもはや吠えなかった。王が許したからではなく、この門を入った者が出てくるはずはなかったからだ。 オルフェウスは何度も振り返って後をついてきているであろうエウリュデケを見たいと思ったが王との約束を思い、必死で我慢して、どんどん道を進んでいった。ようやく生きた人間の国に近づいてきたのか一筋の光がさしてきた。ちょうど太陽が海から昇る時間だったようで空はみるみるうちに明るくなってきた。 ここまで来ればもう大丈夫と、オルフェウスはもう辛抱しきれなくなって後ろを振り向いた・・・振り向いてしまった。 悲しい事にその時まだ、エウリュデケはまだ人間の国まで来ていなかった。 (・・・・・・あの女が地上に着くまでは決して後ろを振り向いてはならぬ・・・・・・) 彼の目にはなんだか青白い人の顔のようなものが見え、優しい妻の声のようなものが聞こえただけですべては霧のように消え去ってしまった。 「オルフェウス!あなたはどうして振りかえったの。どんなに私はあなたを愛し、あなたとまた一緒に暮らせる事を喜んでいたことか。でもわたしはもうひきかえさなくては・・・・・あなたは王との約束を破ったのですから。」 霧が消える時にエウリュデケの声がそう言ったように聞こえて消えた。 オルフェウスはその場にへたり込んでしまった。もう一歩も歩く事はできなかった。彼は昼も夜もずっとその場を動かなかった。頬は青ざめ、からだは日増しにやせ衰えて、彼に死が近づいていることを彼自身も感じた。 しかし、彼は悲しまなかった。美しい花が咲き、青々とした木々が茂り、日の光を浴びて小川がきらきら輝き流れる、その地上をオルフェウスは心から愛していたが、エウリュデケがいなくては生きている気がしなかった。 こうしてオルフェウスは地に頭をつけて眠りについた。二度と目覚めることのない眠りのなかへ。 やがてオルフェウスは太陽の沈む遠い国でエウリュデケと出会ってそれからは二度と別れることなく暮らしたという。 |
この話は一つのパターンです。同じオルフェウスのお話でももっとおどろおどろしい表現のあるものもあります。今回は一番きれいな形のものを選びました。